こんにちは!まさゆきです。
瞑想というと、スピリチュアルなことを想像する人も多いでしょう。
でも、目を瞑って座ることで、何か神秘的な体験ができるわけではありません。
ときどき、光が見えたという人もいることはいますが、そのようなことを期待して瞑想をしても何も得ることはないでしょう。
瞑想は、道に例えて考えるとわかりやすいかもしれません。
往来の激しい道路脇の草むらに目隠しをして座っているところを想像してください。
走り去る車の音など背景の音は聞こえますが、
目隠しをしているのでその光景は見えません。
次に目隠しをとったところを想像してみてください。
はじめて目の前の道路がはっきり見えるようになります。
通り過ぎる車、そのさまざまな色や形や大きさが見えます。
車の音に気をとられることもあれば、外見に関心をひかれることもあるでしょう。
車の音がうるさいと感じたり
かっこの良い車が通り過ぎるとずっと見ていたくなったり
荒々しく走る車に怒りを覚えたり
いてもたっても居られなくなったら。
そのような思いが浮かんできた時には、
あなたはどうしますか。
あなたは車のあいだを走り回って、車を止めようとしますか。
その行為はかなり危険な行為です。
車のあいだをを走り回って、無理に車を止めようとするかわりに、今いる場所にしばらくじっとしていてはどうでしょうか。
危険な行為をしてまで、何もかもコントロールしようとするかわりに、道端に座り、行き交う車をただみていたらどうなるのか。
真夜中になって、車の往来が少なくなっても、朝が来て、ラッシュアワーで渋滞になっても、どちらでも何も変わりありません。
落ち着いて、車の往来をみていることに慣れることです。
瞑想へのアプローチはこのような心でいるということです。
思考や感情から一歩距離をおき、まるで道の脇に座るように眺めます。
ただ、それを忘れてしまうことがあります。
気づくと格好のよい車を見つけて、楽しい気分で追いかけてみたり、荒々しい運転をする車を見つけて、腹立たしくなり止めようとしたり、自分でコントロールしようとします。
しばらくのあいだその感情や思考で埋め尽くされたあと、ようやく自分が危険な道路に出ていることに気づきます。
その瞬間が道路脇に戻るチャンスです。
瞑想を繰り返し練習していくことで、道路に走り出ようとする危険な行為が減って行き、どんな車がどのような走り方で来ようとも、ただ座ってみていることができるようになっていきます。
自分自身の感情や思考が通り過ぎていくのをただ座って、現れては消えていくのに任せられるようになります。
それは、だんだんと、とらわれない心になっていく、瞑想の過程です。
この記事は、
アンディ・プディコムさんの
『頭を「からっぽ」にするレッスン』の導師との会話を引用しています。
瞑想を生活の一部に取り入れるための多くのヒントがある本です。