保証はないけど、湯加減はちょうどいい。

保証はないけど、湯加減はちょうどいい。

この春、妻と温泉に出かけた。

かきいれどきも過ぎて、一年でもっとも仕事がひまになる時期だ。せっかくなので、思い切って連休をとった。

……なんて、言ってはみたものの。

ひまになると、ソワソワして落ち着かない。
というのが本音で事業を始めてからはずっとそんな感じが続いていた。

50代半ばまで、まあまあ仕事漬けだった。

「目標に届かないんじゃないか」とか「もっとできることがあるんじゃないか」とか。
根が真面目なのか、小心者なのか。とにかく、落ち着いて休むというのが下手くそだった。

今思えば、あれはちょっとしたワーカホリック。いや、軽めのノイローゼだったのかもしれない。

休日出勤は当たり前、子どもの行事は二の次。「仕事を優先する父親は尊敬される」なんて、どこの話だろう。

気づいたときには子どもはすっかり大きくなっていた。

働いていれば何かしらの保証がある。そんなふうに、どこかで信じていた気がする。
定年まで勤め上げれば、毎月お給料が入って、老後もきっと安泰で——みたいなやつだ。

けれど、世の中はそんなにお人好しでもない。

「価格破壊」という名の津波が押し寄せ、「リーマンショック」という土石流がやって来て、ぼくの信じていた“保証”は、わりとあっさり流されていった。

おまけに、会社のトップとは犬猿の仲。

なにか言われたら言い返す。業績で見返してやる!と意気込んで走り続けたけど
ある日、心が音を立てた。たぶん、あの音は幻聴じゃない。

風景のなかに当たり前のようにそびえたっていた大樹が、大きな雷を受け悲鳴にも似た音を立ててボッキリ折れた。

こんな調子で30年以上も走ってきたもんだから、「ゆっくり休む」というスキルが体からすっかり抜け落ちていた。

でも、そういえばもうひとつ、長く続けたことがある。小学校から高校まで続けた野球。

小中のときはチームメイトに恵まれ勝ちにも恵まれた。

しかし高校の野球部は、今でいう“ブラック部活”そのもの。

理不尽な上下関係、理不尽な鉄拳制裁、そして理不尽な監督。毎日が理不尽のフルコースだった。いま振り返れば、よく辞めなかったなぁと自分を褒めてやりたい。

好きだったんですよね、野球。好きだから、続けられた。

だから、仕事も同じだったのかもしれない。
広告という仕事が、好きだったから、会社と景気に振り回されながらも、続けられた。

いまはもう、まったく違う仕事をしている。

商売柄、土日は休めないし、月に2回の休みがやっと。
でも、平日にふらっと温泉に来るという、ちょっとズレた自由が手に入った。

そう思えば、湯加減はちょうどいい。

「みんな働いてるのに…」なんて気にすることはない。

露天風呂に浸って、目の前の自然をゆっくり眺められるようになったのは、少し、自信がついてきたからかもしれない。

人生に保証なんてない。

これからもうまくいく保証はないけど、「まあなんとかなるでしょ」と思える、
そんな心持ちがようやく育ってきた。

投げやりではない。肩の力はふっと抜けている。

湯船につかりながら、目の前の景色に没入する。

書類や会議やタスクで埋め尽くされていた脳みそがリセットされるのには時間がかかった。ようやくそれらがディレートされて、妻との時間がメインになっている。

鳥のさえずり、風に揺れる木々の音、ふわっと浮かぶ湯気と、妻の笑顔と、おいしい夕食と。どれもが、じんわり沁みる。

保証はないけど、いま、ここにある時間は、たしかだ。

それを信じられること。
自分を信じて、家族を信じて、いまの暮らしと未来を、まあ大丈夫だと思えること。

それが“保証”ということなのかもしれない。

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